素晴らしい授業とは?(シンプル授業づくり②)
あなたにとって素晴らしい授業とはどんな授業ですか?
イメージしてみてください。
子供たちが生き生きと活動する姿。
楽しそうな子供たちの表情。
天井に突き刺さらんばかりの挙手の手、手、手・・・。
一人の発言者の言葉にじっと聞き入る子供たち。
教室に次々と意見が飛び交う活発な討論。
分からない子によりそう他の子供たち。
人によってそのイメージは様々でしょう。
私の周囲の人にこの質問を投げかけると、
「子供たちが生き生きとしている授業がいいなあ。」
「子供同士のかかわり合いがあるといいなあ。」
「発言がつながる授業ができるようになりたいなあ。」
という声が多いです。
中には、その続きで、「うちのクラスの子供たち授業中ホントつまらないそうで。」、「うちのクラスの子供たち全然、手を挙げなくて」などと理想と現実のギャップに悩んでいる気持ちをこぼす方もおられます。
私も、子供たちが生き生きと活動し、積極的に手を挙げ、子供同士のかかわりがあり、その中で子供たちが切磋琢磨し、成長していく授業は素晴らしいと思います。
それを否定はしないのですが、私が上に挙げたような様々な素晴らしい姿は、授業の本質とはズレがあると思います。
理想を語る前に、授業の本質を見極めましょう。授業の本質とは何ですか?
もう少し具体的に言えば、あなたは指導案の本時の目標に何を書きますか?
「生き生きと学ぶことができる。」「積極的に手を挙げることができる。」「子供同士学び合うことができる。」などと書く人はいないでしょう。
そこには「〜ができるようになる。」「〜を考えることができる。」「〜を理解することができる。」と、何を学び、何を身につけるかを示しているはずです。
つまり、授業の本質とは「子どもの力を伸ばすこと」に他ならないのです。
ですから、私にとっての素晴らしい授業とは、端的に言えば「全員をAに導く授業」です。
普段の授業では分からない子を何とか分からせるのがやっと。つまりCをBにするのがやっとなのですが、理想は「全員A」です。
「生き生き」とか「手を挙げて」とか「学び合って」とか「話し合って」というのは、目標を達成するための方法です。
紅白歌合戦にも出場した「セカイノオワリ」を世に知らしめた大ヒット曲「RPG」の中にこんな歌詞があります。
「方法」という悪魔に取り憑かれないで。「目的」という大事なものを忘れないで。
「方法」は本質を見失わせる「悪魔」です。
私自身も悪魔に取り憑かれている時があったし、「この先生、悪魔に取り憑かれているな」と思うこともよくあります。
ある研究授業では、話合いの前に、子供たちに意見を書かせませんでした。その先生は、つながりのある話合いを生み出したいために、そうしたのです。確かに話合いはつながりがありましたが、発言したのはほんの一部の子でした。じっと話を聞いていた子らが、授業の最後に書いたカードを何枚か見ましたが、そこから学びを読み取ることができませんでした。
仮に全員が生き生きと発言したとしても、子供たちの中に授業のねらいに合った学びがなければ、その授業に合格点は出せないはずです。
改めて言いますが「方法」は「目的」を達成するためにあるのです。方法が目的になってしまってはいけません。
どんなに「学び合い」が効果的で素晴らしいと言ったって、例えば理科の「火山の噴火」を理解させるとすれば、「学び合い」より「動画」が明らかに優れています。
教師は、授業の目的にあった方法を選ぶのです。そして、一人でも多くの子の力を伸ばすことに力を注ぐのです。そして、Cの子をBに。Bの子をAに。Aの子をSに。
「シンプル授業」はこんな理想から生まれました。

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