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6年国語「カレーライス」まとめ

総時数6.5時間で「カレーライス」の学習が終わった。

(市販テストが未実施なので、それも含めると全部で7時間の学習になる。)

今回、私は「話し合い」「発表」の場を全く設けなかった。

教師が問いかけて、子どもが挙手して発言する場面がゼロだったのである。

「話し合い」「発表」が有効と思えば使っていたと思うが、有効と思える学習活動がなかったから使わなかったのである。

 

例えば、次のような授業を想定する。

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1場面の「ひろし」の気持ちを考えよう。

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子どもたちがノートに考えを書いて、発表する。

「セーブもさせずに電源を切るなんてひどいと怒っている。」

「自分も少しは悪いと思っているけど、お父さんのしたことの方がものすごく悪いので、引き算すると自分は悪くないと言い聞かせている。」

「時間の約束をやぶったことなんて小さなことだと思っている。」

「自分も悪いことは分かっているけど、このけんかに負けたくないと思っている。」

などの意見が出るのだろう。浅い読みもあれば、書いていない部分まで想像した深い読みもあるだろう。

 

ごく一般的な授業であるが、私は疑問を感じる。

これらの意見の交流によってどんな学びが生まれるというのか?

私もこういう授業を数知れずやってきたから思うのであるが、このような授業で生まれる学びは非常に浅い。

それは最後に学習の振り返りをしてみれば分かる。授業の最初と最後で、子どもたちは自分の意見を変えることは稀である。

授業の中でも、教師がいくつもの意見に対して優劣をつけることはない。「どれも正しい」「どれも考えられる」というまとめしかできない。どれもよいなら、自分の意見が一番という結論になるのは当たり前である。

かつて分析批評という手法が国語の学習に取り入れられた時、作品は客観的に扱われ、そこにははっきりとした「答え」があった。その答えが作者の意図にそぐわないものであったとしても、作品(言葉)を分析した結果が絶対であった。

今は、読者至上主義である。読者がどのように感じたかが優先である。学習指導要領の中学年の目標(指導事項)に「文章を読んで考えたことを発表し合い、一人一人の感じ方に違いがあることに気付くこと。」とあることからもその傾向が分かる。

今回の私の授業では、1場面の「ひろし」の気持ちに「分からない」と青線をつけた子も何人もいた。私は「分からない」ならそれでいいと思う。それが自然な読みであると思う。「分からない」と青線を引いた時点で、ちゃんと「ひろし」の気持ちを考えている。それで十分である。

「気持ちを考えよう」という課題は、「分かる」子には、分かる理由を他の言葉で置き換えさせ、「分からない」子には推測し、分からないなりに言葉で置き換えさせる作業をさせることである。私には、無理と無駄が大きい作業に思える。第一、楽しい学習に思えない。

そこで、自分が引いた赤線と青線を友達と見比べさせる学習を行った。私の予想以上に会話が生まれた。そして、自分に対する気づき、友達に対する気づきが生まれた。その気づきの中で、「ひろし」に対する理解も深くなったと思う。少なくとも「登場人物の気持ちを別の言葉で置き換えて発表する」学習よりは実感の伴う理解ができたと思う。

残念なことに、「全員に」「同程度の」学びを与えられるかという意味では安定性はない。そのために私は、「一番心配な子」を常に注意深く見ている。一番心配な子が大丈夫であれば、他の子らも大丈夫だろうという捉え方をしている。今回は、一番心配な子にも少なからず学びを見取ることができた。

そして全員が自分の体験を交えた感想文を書くというゴールに至ったことで、この学習の大きな目標は達成できたと考えている。

教師にとっても、子どもたちにとってもストレスがなく、楽しく、シンプルな授業ができたと思う。

6年国語「カレーライス」教材研究(1)

6年国語「カレーライス」教材研究(2)

6年国語「カレーライス」実践編1

6年国語「カレーライス」実践編2

6年国語「カレーライス」実践編3

6年国語「カレーライス」実践編4

6年国語「カレーライス」実践編4.5 

6年国語「カレーライス」実践編5

6年国語「カレーライス」実践編6

6年国語「カレーライス」まとめ 

「話し合い」「響き合い」「学び合い」の学習に疑問を感じる方にも読んでいただきたい内容があります↓↓↓